臼庭潤君のこと、そして良いお年を (2/3)

12-29,2011

(1/3) からの続きです。臼庭潤(うすば じゅん)さんのこと…
彼と始めて会ったのは新宿の J で。随分昔の事です。それから日本に行くと時々会ったり一緒に演奏したりする機会もありましたがその後しばらくの間ご無沙汰になってしまいました。そんな彼から突然メールが来たのはピアノの本田君が亡くなった時。メールの内容は、お葬式に行って、もぬけの殻の様な本田君の亡がらに会っても何も感じられなかったんだけれども、僕が書いた追悼文を読んでいるうちに駆け出しの頃 本田君にしぼられた事や昔のいろんな事を思い出して来て思わず涙が出て泣く事が出来た、 っていう様なメールでした。
僕があの文章に書いたあの日のピットインでの珠也のバンドというのに臼庭君が入っていたんですね。

それから又最近のつきあいが始まった訳です。

2008年の12月。突然僕が演奏しているNYの Arthur's Tavern に現れたんです。ドラムの平川君とは日本の時からの友達だったとの事。久しぶりに会ってルックスが全くの別人。あまりにも前のイメージと違うのでビックリでした。新しいガールフレンドと一緒にとても幸せそうでエネルギーに満ちあふれていました。41歳にして結婚の決意をして最高に幸せな時だったんだね。

次は2009年の2月。目黒のJ.J's カフェにベースの岡田君、ドラムのウータン、それに海老原淳子というメンバーで出演している時にドラムの横山和明君を連れて遊びに来たんです。この時も数曲飛び入りで演奏。ぬけた音で思いっきりの良い吹っ切れた男っぽいプレーでとても好感を持っていました。

それで次が去年2010年の夏、一緒に仕事したんですが結局これが最後になったしまいました。
6月の末から7月の頭にかけて彼が新しく組んだバンドに僕がゲストで入って J , Sometime , アケタの店 , NARU の4カ所で仕事をしたんです。メンバーはピアノ松本茜、ベース畠山芳幸、ドラム横山和明。(テナーサックス 臼庭潤

その間も彼が最近作ったCDを送ってくれたり彼のバンドとのこの仕事の件の話もあったのでメールでのやり取りがいろいろありました。

2010年1月4日 幸せそうな家族3人の写真付きのメールで、

昨年8月22日に息子が誕生し、お陰様で順調に成長しております。
名前はロイです。
名付け親はロイ・ヘインズで本人が一筆くれましたので、心意気にあやかってカタカナにしました。
僕も父親としての自覚を新たに演奏に反映させていきたいと思っております。


2010年4月17日のメールには、

僕は5月からジャズ原点に帰るべく、念願のカルテットを結成し、スタンダードを思いっ切り演奏し新たな音楽人生に賭ける思いでいっぱいです。

そんな風に前に向かって力一杯走り出していたんですね。

最初の J での演奏はとにかくやってみようと言う様な演奏だったのですがバンドメンバーみんなが若者なのでエネルギーいっぱいで楽しかった。2回目の Sometime の仕事の時は始まる前に選曲にバラエティーをつけようとか違うテンポの曲もやってみようとか話し合ったものです。

3回目のアケタの店での演奏は店の機材でライブレコーディングしてあるんですよ。結局これが最後のレコーディングになってしまいました。その夜はケイ赤城や珠也も聞きに来ていました。

結婚生活が崩れてしまった事を僕が知ったのがこの日だったんです。あんなに幸せそうな二人だったのでその話にはショックでした。

4回目最後の仕事 NARU の時はケイ赤城が又遊びに来て数曲一緒に演奏したりバンドもやっと落ち着いて来たという感じで僕としては一番楽しめた演奏でした。ケイも潤のプレーには好感を持っていたよ。

彼の溢れ出る様なプレーは4回通して全部素晴らしかった。そこにはこれからどんなにすごいミュージシャンになって行くんだろう、楽しみだなと感じさせるものが多々ありました。残念でたまりません。スピリットがあり存在感のあるプレーは時々ソニーロリンズを彷彿するような瞬間もあった。実はソニーもそうなんだけれどあの豪快な演奏の裏には繊細で複雑な部分があるんですね。そういうものがその人物の深さにもなる訳ですが臼庭君にも正にそういうところがあったんだと思います。

次の記事で完結します
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